雑記帳

2007年11月26日 (月)

お祝い

私たち夫婦は、この11月23日に18年ぶりに入籍いたしました。

平成元年、私が事業に失敗し大きな借金を背負うことになり、協議離婚をいたしました。

それからずっとそのままになっていた籍を元に戻したのです。

4人の子供たちは、みなそれぞれ個性豊かに大きく育ってくれました。

その4人の子供たちと、今年の8月に結婚した長女のお婿さんの5人で、25日そのお祝いをしてくれました。

すべて5人で相談をして決めてくれたのだそうです。

大森駅前のお寿司屋さんのお座敷を貸しきって、会食をしながら約4時間いろいろと話をすることが出来、おかげさまで本当に忘れがたい素敵な時間を過ごさせてもらいました。

花束をもらい、兄妹4人からと言うことでおそろいのパーカーの万年筆をプレゼントしてもらいました。

その場で開けてみると私のペンには、TsnynK1123。家内のペンには、KsnynT1123と銘が打ってありました。

Tは私登志夫のT、sは長女幸子、nは長男伸明、yは次女由紀子、nは3女典子、Kは家内和子、それぞれのイニシャルと入籍記念日が入っていたのです。

そのペンは私たちにとっては何物にも代え難い宝物になりました。

大切に大切に使わせてもらおうと思っています。

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2007年11月25日 (日)

ピカソは凄い!!

きのう、家内と二人で朝のお参りをしたあと、巣鴨駅前のサンマルクでゆっくりとモーニングをとりました。
そのあと上野の東京都美術館で開催されている「フィラデルフィア美術館展」に行ってきました。

ルノワール、モネ、セザンヌ、マネ、ピサロ、ピカソ等々、77点の作品が3フロアーにわたって展示されておりました。

わたしはルノワールやモネが大好きなのですが、ピカソの「ヴァイオリンを持つ男」という作品にとても感動いたしました。
構図といい色彩といいまさに天才!いくら観ていても引き付けて離さない魅力を持っていました。

3フロアーを観て歩くと結構疲れるものです。
美術館を出てから隣の上野動物園の入口のすぐ近くにある「鴬だんご」に舌鼓を打ちながらしばし一休みです。

そのお茶屋さんを出るとすぐ脇に上野東照宮がありました。
「へえ-、上野の東照宮てこんな所にあったんだ。せっかくだからお参りさせていただこう」ということで、お札所で拝観料200円を払い内宮まで参拝させていただきました。

上野のお山はどこへ行っも人人人・・・
昼食をとろうとパンダ橋を渡り上野駅アトレへ行ってみましたが、そこも人でいっぱい。
どのお店も長蛇の列です。
そこで買い物がてら新宿に移動しやっと昼食にありつきました。

でも少し目と心の保養になったかな?

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2007年11月 8日 (木)

ヤマダ電機がオープン

一昨日会社からの帰り道、2日にお隣の大井町駅前にオープンしたばかりのヤマダ電機に行って来ました。
デジタル館の1階から6階までと生活館の6階から1階までを一通り見て回りました。

私の足を止めさせたのは、デジタル館6階の高級オーディオコーナーでした。
さすがに100%子会社となった秋葉原のサトー無線のオーディオコーナーがそっくり移ってきたと言うだけあって、垂涎のマッキントッシュの球管アンプをはじめタンノイやJBLのスピーカー等々に時間の経つのも忘れて見とれてしまいました。

ぐるりと一回りしてワゴンセール中のUSBフラッシュメモリーを購入しました。
以前購入した時はSONYの1Gバイトで9800でしたが、なんと2Gバイトで1980円、うそでしょ!!と言うお値段。
ラッキー!なにか物凄く得した気分になりました。

とにもかくにもこんな近くに豊富な品揃えの大型電気店ができたと言うことは何とも便利になったものです

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2007年10月29日 (月)

息子の引越し

昨夜は、家内とともに息子の新しい住まいへ行ってまいりました。

今まで住んでいた所から車で15分くらいの所なのですが、先々週の14日の日曜日にレンタカーを借り友人2人に手伝ってもらって引越しをしたのです。

630分恵比寿のガーデンプレイスでおち合い、場所を新宿に移して食事をしてから新居に向かいました。

西武池袋線の富士見台駅から徒歩で約12、3分、閑静な住宅街の一角に位置する、門がオートロックになっている真新しい2階建てのアパートの2階の一室です。

部屋のドアーには2つの鍵が付いていてセキュリティー重視の設計のようです。

1Kで、部屋は約7畳分ありシングルベットと小さなソファーを置いても、懐かしいダイヤトーンの自作スピーカーBOXの上に置かれた新しく購入した32インチの液晶テレビも小さく見えるほどまだ充分スペースがあります。

部屋の一面がクローゼットになっており収納もまあまあです。

お風呂もトイレも洗面所も独立しており、洗濯機置き場や冷蔵庫置き場もきちっとスペースが取ってあり一人で住むには何の不足もないようです。

家内も安心したようでゆっくりとくつろぎ、11時まで世界フィギアを見てから帰途につきました。

でも家は大森駅から徒歩3分なので、やはり徒歩で12、3分は遠いですね。

まー若いから毎朝、毎晩そのくらい歩くのもいい運動になるかもしれません。

元気でやってくれることを祈るだけです。

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2007年8月17日 (金)

鎌倉幕府御用金 その6

鎌倉幕府御用金 その6

怪しげな教授先生達に大きな不信を持った私は、そのことを一生懸命社長の次男に訴えました。

その次男の方もうすうす同じようなことを感じておられたのですが、じぶんがアメリカ留学までさせてもらったと言うこともあり教授先生方を信じきっていた父である社長には、何一つ箴言することが出来ませんでした。

そうこうするうちに、あるとき私は一つのいたずらを思いつき次男にだけには内緒で伝え、意を決してそれを実行に移したのです。

日ごろ教授先生は、事もあろうに「この器具は金塊でも、甕でもその一部のかけらでもあれば元の形までわかります。埋蔵金が出てこの理論が証明されれば、ノーベル賞間違いありません」と嘯いていたのです。

そこで、煉瓦のかけらをバケツの中の放り込み残土に混ぜて上げたのです。

「先生こんなものが出てきました」とそのかけらを渡すと、教授先生は神妙にそのかけらを例の器具の下に置き、振り子をくるくると回し始めました。

固唾を呑んで見守っていると、なんとこう言ったのです。

「あ!これは金塊のカメのかけらでここの部分になります。もうすぐ金塊が出ますよ。」

そして絵まで描いて見せたのです。

その瞬間、私は次男の方と思わず顔を見合わせてしまいました。

心の中では「ふざけるな!このペテン師共が」と思わず叫んでいました。

わあーこれはとんでもないことになった、これがうわさには聞いたことがあったけれど、本物の山師と言われていた人達なんだと思った瞬間、体のふるえが止まりませんでした。

私はこの出来事をきっかけに、一億円のボーナスの夢も、世界中の財宝を集める会社をつくるという夢も、泡と消えてしまい急速にモチベーションが下がってしまったのです。

そこで、どうしても自分は音楽の世界の仕事がしたいので辞めさせて欲しいと、社長に直接お願いをして一切このプロジェクトのことを他言しないということを約束しそのプロジェクトから降ろしていただいたのです。

それから、そのプロジェクトはさらに1年ぐらい続いたようです。

しかし鎌倉幕府御用金はついにその姿を現すことなく終わったようです。

その付けはO工業にとっては大変厳しいもので、3万坪もあった追浜工場を手放さなければならないことになったようです。

私はおかげさまで音楽の世界に本格的に足を踏み入れることになったわけです。

社長との他言はしないと言う約束もあれから40年近い月日が流れたわけですのですでに時効となっていると思われます。

私の人生の貴重な体験の一つとしてここに書き留めておきたいと思った次第です。

最後までお付き合いいただき誠にありがとうございました。

                                 完

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2007年8月13日 (月)

鎌倉幕府御用金 その5

時は鎌倉時代です。もうすでに鉄製の鋤や鍬が有ったかも知れません。でもロープは藁を編んだ藁縄ぐらいしかなかったでしょうし、普通は木の鍬に木のバケツ(桶)です。

これで何メートルの深さまでの穴が掘れたのでしょうか。

現在は、ウィンチがあり、ワイヤーロープや丈夫な化学繊維のロープがあり、高性能の水中ポンプがあり、ブレーカー(削岩機)があり、酸欠を防ぐために酸素を送る装置があり、丈夫な山止めの材料がいろいろありますから20メートルでも30メートルでも掘れるわけですが、はたして鎌倉時代にどこまで出来たのでしょうか。

それよりもなによりも、もしそんな埋蔵するような御用金があったとしたらはたして幕府は滅びていたでしょうか。

個人が財産を溜め込んで、自分の子孫のために財産を隠すと言うことはまれにあるかもしれません。

しかし北条執権政治といっても、実質的には国家の実験を握っていた幕府なわけです。

その幕府の存亡がかかったときに、もしも埋蔵するほどの御用金があったとしたら、当然相手(敵軍)よりたくさんの武器を買い、たくさんの人を集め、自らの地位と名誉を守るために戦ったのではないでしょうか。

いつの時代であろうと、権力イコール金であり、金イコール権力であったわけで、お金のあるところに権力も情報も全てが集まったわけです。

そのお金が無くなったからこそ、権力が無くなり幕府が滅びたのだと思い至ったわけです。

これは、鎌倉幕府だけに限った話ではありません。徳川幕府も例外ではなくまったく同じことが言えるわけです。

ことに幕末にはお金さえあれば、イギリス、フランス、オランダなどから、いくらでの鉄砲でも、大砲でも、弾薬でも、軍艦でもまた兵隊でも何でも手に入ったわけですから、赤城山に埋蔵するような御用金があったらば当然、薩長土肥連合軍が官軍と言う錦の御旗を掲げるその前に、よりたくさんの武器や兵隊を揃えて勝ち戦をすることも可能だったはずです。

誰だって、自らの存亡がかかったときに自分達を犠牲にして子孫のためを第一義に考えたでしょうか。

自分達が助かりたい、少しでも生き延びたいと思うのが自然ではないでしょうか。

もしもそこに埋蔵するようなおかねがあったならば、当然自分達が生き延びるために使うと思うのです。

親子二代にわたり何十年も探しても見つからないようなところに隠してしまったのでは、子孫はそれを見つけ出して使うことも出来ず、何のために埋蔵されたのかそれでは何の意味もありません。

ですから、何々幕府御用金などといった類の埋蔵金の話は、話としては面白いかもしれませんが、はじめから無かったのだと確信するに至ったのです。

これが私の1年半の金塊堀りを通して自ら悟ったところのものでした

次回につづく

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2007年8月 9日 (木)

鎌倉幕府御用金 その4

鎌倉幕府御用金 その4

教授先生が例の器具で探索する。振り子がくるくる。さーボーリング。「それ金が出た」。「それここを掘れ」。

そんなことを約1年弱みんなで夢中になって繰り返したのです。

もちろん御用金はその姿も影すらも現わしませんでした。

この1年弱の間に掘った深さ25メートル以上の井戸の数は、なんと30本。

雑木林だったところは、バケツで一杯一杯あげた残土で埋まり、ブルドーザーがそれを均し、大型トレーラーが悠々とUタウンしていける広い広場となっていたのです。

人間の「欲望の力」とはなんと凄まじいものなのでしょうか。

この「欲望の力」こそが常に人類の歴史の扉を開いて来たのかも知れませんね。

その結果が文明と呼ばれるのかも知れません。

なにはともあれ、もうここには無いのではないか、どこか別の場所に埋蔵されているのではないかと言うことになり、次に考えられたのが、北条政子の隠居跡である寺院の境内でした。

それがなんとこともあろうに横浜のO工業の本社敷地続きと言うか敷地内と言うか隣にある寺院だと言うのです。

調べてみると、確かに北条政子のお墓があり、北条政子が晩年をおくった史跡となっていたのです。

その土地はまぎれもない社長名義になっていたのです。

鎌倉幕府の御用金は、侍大将の某氏ではなく北条政子自身が埋蔵したに相違ないと言うことになったのです。

本当にさもありなんと言うお話です。

それでは、ということになり会社の大型トレーラーを呼んで大移動することになりました。

そのお寺の境内で3本の井戸を掘ってみたのですが埋蔵金は見つかりません。

4本目に移動しボーリングを始めました。

たしか2本目のロッドを継ぎ足した直後、ものすごい抵抗がありそれを抜けた瞬間、ロッドが急にストンと落ち込み、ベントナイトがさーと引いてしまったのです。

すぐに機械を止め調べてみると、そこのあたり一帯は社長自身も忘れていたのですが、戦時中に自分達が作ったO工業の地下工場の跡地だったのです。

つまりボーリングのロッドの先のコアが地下工場の天井を突き破ってはじめてそれがわかったのです。

そこでそのお寺での探索は取りやめになり、また自宅の敷地に戻ることになりました。

この時点まで、私自身、完全に欲に目がくらんでいて常識や当たり前のことも目に見えなくなっていましたし、ちょっと考えれば誰でもわかることも、まともに考えることが出来なくなっていたのです。

しかし、ここで作業が出来ない時間が生じ、少し冷静に考える時間が出来たのです。

ちょっとまてよ!なにかおかしくない?とふと思ったのです。

以下次回につづく

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2007年8月 7日 (火)

鎌倉幕府御用金 その3

鎌倉幕府御用金 その3

穴に入って掘削する人、ウィンチを運転する人、上がって着た残土をネコに積む人、そのネコで残土を捨てに行く人、その残土を均す人。

5人が交代で順番にそれぞれの作業を受け持ちながら作業は進められていきました。

あと50センチ、あと30センチ、みんなで夢中になって掘り進んでいくうちに、いつのまにか穴の深さは、なんと25メートルを超えてしまいました。

そこまで掘ってみて、いくらなんでももうこれ以上深いところには無いだろうとの結論にやっと達し、この場所では無くて別の場所だろうということになったのです。

そこでまた教授先生が例の器具を取り出して、別の場所を探索しているうちに、また振り子がくるくると回り始めるのです。

すると教授先生「あ!ここです、間違いありません」と言うんですね。

今度は、もう少しべつの方法でも確かめてから掘り始めようと言うことで、社長宅に出入りしていた井戸屋さんを呼んでボーリングをすることになりました。

「はい君、ボーリングお手伝いして、教えてもらいなさい」と社長に言われて今度ははボーリング屋さん。

一緒にお手伝いしているうちにすぐに1人前に作業が出来るようになると、社長は井戸屋さんに向かって「忙しいところ無理言ってすまなかったね、機械だけ置いて行ってくれればいいから、ご苦労さんでした」と言って井戸屋さんを帰してしまいました。次の日から自分達でボーリングです。

6、7メートルまで進むと、ベントナイト(ボーリングのコアと穴の壁の保護と泥を上げるための白濁の潤滑剤)の中に、金色の削りかすのようなものが混じって上がってきます。

そこで教授先生、器具をかざすと振り子がくるくる、「これは金塊のかけらです。ここに間違いありません。」と言うことで、早速ボーリングの機械を移動しすぐに掘削が始まります。

あとで判ったことですが、それはコアのダイアモンドの刃を止めている砲金が砂利によって削られ、ベントナイトに混じっていただけだったのですが、その当時は全員金色イコール「金」「小判」「金塊」と言う思考しかありませんでしたので、即「それー出た」と言う掛語一つで夢中になって井戸掘りが始まったわけです。

でも別の楽しみもありました。

毎日のように午後の3時になると一服の時間です。

社長の奥様が自ら作ってくださった「おやつ」がお茶やコーヒーとともに、奥様ご自身と、次男の美しい若奥様の手によって運ばれてきました。

特に「すいとん」と「けんちん汁」は絶品で本当忘れられないおいしさでした。

社長がそれをすすりながら、「戦時中はうどん粉を手に入れるのが精一杯で、他に入れる具なんかなにも無かったんだよ、いまは豊かになったね」としみじみ語っていたのが印象的で今でも思い出されます。

また、5時に作業が終わり片付けが終わると、いつも社長が「一緒に風呂に入ろう」と言って広いお風呂で、みんなで1億円のボーナスが入ったらどうする、ああしたい、こうしたい、ああもしたい、こうもしたい、とわいわいがやがや騒いだことが、本当に懐かしい思い出です。

以下次回につづく

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2007年8月 4日 (土)

鎌倉幕府御用金その2

鎌倉幕府御用金その2

自称某大学教授と名乗っていた先生が、振り子の付いたゼンマイばかりのような器具を持ち出し、山の中を探索して歩くとやがてその振り子がくるくると回り始め、その円が大きくなったり小さくなったり、一番大きく円を描くところで、「はい、ここが一番強く反応します。この下に御用金が埋まっています」と場所を特定します。

するとその周りを伐採し整地をして、直径1メートル20センチの穴を掘り始めます。

やがて穴の深さが1メートル50センチを超えると、もうスコップで跳ね上げることが困難になって来ます。

そこで、丸太3本で櫓を組み滑車を取り付け、ディーゼルのウィンチ(自動巻き上げ機)を設置して、ワイヤーを掛けて、大きなバケツを掛けて残土を引き上げます。

はじめのうちは、上がってきたバケツに入った残土をひっくり返して捨てていましたが、次第に距離が生じてきますので、ネコ(お皿がついた一輪車)に移して捨てるようになりました。

やがて穴がさらに深くなると、そのバケツに乗ってワイヤーにつかまって(安全上絶対にやってはいけません)上り下りするようになりました。

深さが2メートルを過ぎると岩盤となりスコップではまったく刃が立たなくなります。

そこでツルハシの柄を短く切り落として狭いところでも作業が出来るように工夫しました。

またご存知の方は少ないかもしれませんが、山芋堀の道具があります。

ちょうど彫刻刀の平刃のお化けと思っていただければ想像が付くかもしれません。

その柄を無垢の鉄製で作り、持ち上げて手を離すだけで、その落下する重さを力に利用して何とか岩盤を掘り進んで行きました。

一人45分で交代しながらの作業でしたが、吹き出る汗は水蒸気となって立ち上りました。

しかし教授先生の「あと1メートルです」「あと50センチぐらいです」との声に励まされて懸命に掘り続けました。

岩盤を抜けるとこんどは砂岩になり周りの壁がぼろぼろと崩れ、山が来るという状態になります。

そこで山止め用に内径1メートルのヒューム管(下水道用のコンクリート管)を上から入れて積み重ね一緒に掘り下げて行きます。

まわりの直径で掘ってやれば自分の重みで自然と一緒に下がって行きます。

やがて5メートルぐらいから水が出るようになり、水中ポンプを入れての作業になりました。

井戸掘りならばここで終わりですが、それは御用金が出て来るまで続けなければなりません。

さらに掘り進むと砂利層になりそれを抜けると、こんどは水が上から降ってくるようになり、合羽を着ての作業となりました。

1日に何回か社長が見回りに寄り、自ら合羽を着て穴に入り30分ぐらい掘削作業をして上がってくるとシャワーを浴びて会社へ戻ると言うことをされておられました。

以下次回につづく

自称某大学教授と名乗っていた先生が、振り子の付いたゼンマイばかりのような器具を持ち出し、山の中を探索して歩くとやがてその振り子がくるくると回り始め、その円が大きくなったり小さくなったり、一番大きく円を描くところで、「はい、ここが一番強く反応します。この下に御用金が埋まっています」と場所を特定します。

するとその周りを伐採し整地をして、直径1メートル20センチの穴を掘り始めます。

やがて穴の深さが1メートル50センチを超えると、もうスコップで跳ね上げることが困難になって来ます。

そこで、丸太3本で櫓を組み滑車を取り付け、ディーゼルのウィンチ(自動巻き上げ機)を設置して、ワイヤーを掛けて、大きなバケツを掛けて残土を引き上げます。

はじめのうちは、上がってきたバケツに入った残土をひっくり返して捨てていましたが、次第に距離が生じてきますので、ネコ(お皿がついた一輪車)に移して捨てるようになりました。

やがて穴がさらに深くなると、そのバケツに乗ってワイヤーにつかまって(安全上絶対にやってはいけません)上り下りするようになりました。

深さが2メートルを過ぎると岩盤となりスコップではまったく刃が立たなくなります。

そこでツルハシの柄を短く切り落として狭いところでも作業が出来るように工夫しました。

またご存知の方は少ないかもしれませんが、山芋堀の道具があります。

ちょうど彫刻刀の平刃のお化けと思っていただければ想像が付くかもしれません。

その柄を無垢の鉄製で作り、持ち上げて手を離すだけで、その落下する重さを力に利用して何とか岩盤を掘り進んで行きました。

一人45分で交代しながらの作業でしたが、吹き出る汗は水蒸気となって立ち上りました。

しかし教授先生の「あと1メートルです」「あと50センチぐらいです」との声に励まされて懸命に掘り続けました。

岩盤を抜けるとこんどは砂岩になり周りの壁がぼろぼろと崩れ、山が来るという状態になります。

そこで山止め用に内径1メートルのヒューム管(下水道用のコンクリート管)を上から入れて積み重ね一緒に掘り下げて行きます。

まわりの直径で掘ってやれば自分の重みで自然と一緒に下がって行きます。

やがて5メートルぐらいから水が出るようになり、水中ポンプを入れての作業になりました。

井戸掘りならばここで終わりですが、それは御用金が出て来るまで続けなければなりません。

さらに掘り進むと砂利層になりそれを抜けると、こんどは水が上から降ってくるようになり、合羽を着ての作業となりました。

1日に何回か社長が見回りに寄り、自ら合羽を着て穴に入り30分ぐらい掘削作業をして上がってくるとシャワーを浴びて会社へ戻ると言うことをされておられました。

以下次回につづく

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2007年8月 2日 (木)

鎌倉幕府御用金その1

鎌倉幕府御用金その1

今から、約40年ぐらい前の嘘のような本当のおはなしです。

これはまた、人間の欲望とは本当に凄いものだということを身をもって体験させられた出来事でもありました。

その人間の一人が他ならぬ私自身のことであったからです。

そのころ私は、伯父がやっていた土木建築会社を手伝っていました。

横浜に本社のあるO工業に出向のようなかたちで、その追浜工場で仕事をしていました。

大型バルブの製造と大口径の送水管を中心とした製缶工場で、当時ではまだ貴重だった1000tonプレス機械が設置された工場でした。

そのO工業の社長さんは、北海道から単身上京し獣医をしながらいろいろな仕事に携わり、ダムなどで使われる「バルブ」で特許を取得し、一代にして財をなしたかたで、いつも誰よりも朝早く出社して工場のなかを見回り、ごみを拾っておられました。

そんな社長から指名を受けて、極秘プロジェクトに参加することになったのです。

その社長のご自宅は、横浜市南区の小高い丘の上にあり、広く大きな母屋のほかに移設した5棟の古い日本家屋が点在する、丘というかその山全体がご自分の敷地でした。

そこは、その昔鎌倉幕府の御用人で侍大将だった、某氏の屋敷跡でその子孫がずっと700年以上住んでいたのだそうです。その子孫の方から社長が直接手に入れたとのことでした。

そこには、代々にわたって、敷地のどこかに鎌倉幕府の御用金が隠されていると言う言い伝えがあったのだそうですが、その所在が謎となってきたそうです。

人一倍好奇心の強い社長は、極秘のプロジェクトを立ち上げ、その御用金を掘り出そうと思ったのです。

そのプロジェクトの一員として私に白羽の矢が立ったのです。

プロジェクトには、指名された私達5人の他に社長ご自身と、アメリカ留学から帰ったばかりでまだ新婚ほやほやだった社長の次男、それになんか怪しげな4人の自称大学教授という方々が参加しておりました。

時価にして、5兆円と推測されるその埋蔵金がもし掘り出されたとしたら、その70%の3兆5千億円が国庫におさめられ、残り30%の1兆5千億円が発見者に返還されるそうなんです。

そうなったらならばプロジェクトに携わったもの全員に1億円のボーナスを支給すること、5千億円で世界中の財宝金塊を探し出す会社を創ってそのメンバーで世界中の財宝を集めよう、と言うのが社長の約束であり、夢だったのです。

そして、奇しくも約1年半にわたる金塊堀に携わることになったのです。   以下次回につづく

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