音楽

2007年9月18日 (火)

音楽との出会い(Ⅵ)

音楽との出会い(Ⅵ)

カラスの歌っているオペラの全曲盤を次から次へと買い集め、海賊版まで探し求めるようになり、今度はお給料の大半がそのために消えるようになりました。

独身時代の懐かしい思い出です。

また当時はまだCDMD、ましてやiPodのようなポータブルプレイヤーなどまだ世に生まれておりませんでしたので、どこへ行くにもカラスのオペラアリア集と、カザルスのバッハの無伴奏チェロ組曲全曲と、シェリングのバッハの無伴奏ヴァイオリンの為のソナタとパルティータ全曲が入ったカセットテープを何本も持ち歩き、車を運転していた時も、電車に乗っていた時も、また歩いていた時も、そのテープが擦り切れるくらいになるまで本当によく聴いたものです。

マリア・カラス、そしてパブロ・カザルス、この二人の偉大な音楽家としての魂との出会い、言い換えるならばこの二人の音楽に対する考え方、捕らえ方、技術力、音楽性というか音楽そのもの、また人生に対する取り組み方から生きる姿勢そのものにいたるまでが、この私に強烈な影響を与え続け、この出会いがついには私自身の人生を決定付ける大きな要因となったのです。

私の音楽に関するすべての判断の基準は、この二人から学んで与えられたところのもので、そのことに私自身、無上の誇りと喜びとを持っています。

音楽と言う神様からの贈り物か、宇宙森羅三千の生命、宇宙からの贈り物か、いずれにしてもこの素晴らしい音楽との出会いに心の底から感謝、感謝、感謝です。

マリア・カラスのことにつきましては、すでに今までにも少々書かせていただいてまいりましたが、これからも折々思いついたこと、また目新しいニュース等書き続けて行きたいと思っておりますのでよろしくご支援をお願いいたします。

またまた最後までお付き合いありがとうございました。

今回の「音楽との出会い」はこれで終了です。

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2007年9月16日 (日)

音楽との出会い(Ⅴ)

音楽との出会い(Ⅴ)

初めてその人の音楽に出会い、その声を耳にしたとき、あのカザルスをはじめて聴いた時とまったく同じような衝撃を受けた人物がもう一人います。

それが「世紀の歌姫」「不出生のプリマドンナ」「永遠の女神(ディーバ)」と呼ばれているマリア・カラスその人なのです。

当時、東芝EMIからリリースされていた「マリア・カラスの芸術」と言う上下2セットで五枚組みのレコードをいきなり購入してきたのは、カラスを聴いてみようということもありましたが、それよりも色々なオペラのアリアが網羅されていたので、ちょうどオペラの勉強をしてみようと思っておりましたので、またとないセットだったのです。

そのころはまだマリア・カラスに対する知識は、テバルディのライバルであり、なにか凄いらしい、といった程度で、ほとんどまったくといってよいほどありませんでした。

そこでまずはカラスの定番といわれその代名詞にもなっているベッリーニの歌劇、「ノルマ」のなかのアリア「カスタ・ディーバ(清らかな女神よ)」を聴こうと思いました。

ハードケースからレコードを取り出し、プレーヤーにそのレコードをセットして針を置きました。

静かに前奏が始まりその長い、長い前奏が冒頭にもどるとやがて歌が始まります。

そのカラスの声が聴こえた瞬間から、あのカザルスのバッハを初めて聴いた時と、まったく同じような衝撃的な体験をすることになりました。

陰影に富んだその歌声は、張り詰めた緊張感を持って、まったく別の次元、別の世界から聴こえてきたように感じられたのです。

以来すっかりその歌声に魅せられ、熱病に侵されることになり、とうとうカラス気違いとう重い病を患うこととなったわけです。

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2007年9月13日 (木)

音楽との出会い(Ⅳ)

音楽との出会い(Ⅳ)

それは本当に生まれて初めての体験でした。

スピーカーの位置にもよりますが一般的なステレオ装置で音楽を聴く場合でしたら正面のスピーカーから音が聞こえてくるのが普通です。

しかしそのカザルスが演奏するバッハの無伴奏チェロ組曲という音楽は、正面の左右に設置した、ダイヤトーンの16センチフルレンジスピーカーを指定のボックスに自分で収め、25ミリのコーンツウィターを追加したいわば自作のスピーカーから聞こえてくるのではなく、天から降ってくるように鳴り響いていたのです。

それはまさに天からの啓示であるかのように私には聴こえてきたのです。

以来カザルスの音楽と対するときはいつも自然に敬虔な気持ちで接するようになりました。

あれからすでに四十数年という時間が経過いたしました。

ダイレクトドライブのレコードプレーヤーや、プリメインアンプもいつの間にか姿を消し、モジェラーステレオに取って代わられ、当時の自慢のオーディオ装置も今は夢の跡といったところです。

ちなみに現在その時のスピーカーは?といいますと、実は今でも健在なのです。

息子が自分のアパートの一室に据付けて、メインスピーカーとして使ってくれています。

ちょっと大きくて場所をとっていますが、いまだに結構いい音を響かせているようです。

以下次回につづく

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2007年9月 3日 (月)

音楽との出会い(Ⅲ)

音楽との出会い(Ⅲ)

バックハウス、シェリング、オイストラフ、グールド、バルヒャ、ベーム、クレンペラー、等々、等々それらの素晴らしい音楽家たちとの出会いが、どれほど私の人生を豊かにしてくれたかは計り知れません。

そんな音楽との出会いのなかでも、私にとって最も衝撃的で決定的な出会いだったのが、忘れもしないあのチェロの巨匠パブロ・カザルスとの出会いでした。

当時、音楽関係の書籍を方端から読み漁っていた私は、白水社から出版されていた、コレドール著「カザルスとの対話」と言う一冊の本と出合いました。

その本の中のパブロ・カザルスという人物に非常に強い感銘を受け、そんな人物の音楽をぜひ聴いてみたいと思ったのです。

そこですぐにレコード店に跳んで行き、その本のなかに度々書かれていたバッハの「無伴奏チェロ組曲」を手に入れることが出来ました。

家に持ち帰り、早速ケースの蓋を開き中の一枚目のレコードをレコードプレーヤーのターンテーブルに載せ針を落しました。

普段いつもレコードを聴くときのようにスピーカーの方に向ってゴロリと横になり、ひじを突き掌に頭を乗せて、横臥の状態で曲が始まるのを待っていたのです。

するとかすかなノイズの中から突然、それは本当に突然に、チェロの音が頭上の方から降りかかってきたのです。

え!そんな馬鹿なことと思った瞬間、体が自然と起き上がり正座をしていました。

そしてその音に全神経を集中して聞き入ることとなり、結局そのまま全曲を通して聴くことになったのです。

以下次回につづく

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2007年8月27日 (月)

音楽との出会い(Ⅱ)

音楽との出会い(Ⅱ)

そんななかで、ベートーヴェンに出会い、モーツアルトに出会い、バッハの音楽に出会うことになりました。

それらの音楽を演奏したり、聴いたりしているうちに、いつの間にか私自身の心の琴線を揺すぶられ、いろいろなことを感じ、心を動かされ、それらの音楽から生きる喜びや感動を与えられ、深く音楽の世界に足を踏み入れるようになっていったのです。

そうなると毎週のようにレコード店に通うようになり、次はこのレコードとこのレコード、

その次はそのレコードとあのレコード、と言うふうに小遣いの大半がレコード集めのために消えることになります。

そこで演奏会を聴きに行くときは、ほとんどのオーケストラに知り合いがいたものですから、楽屋の入り口でその知り合いのメンバーを待ち伏せして、一緒に楽屋裏から入って開演間際に舞台の袖から客席に侵入し、空いている座席に滑り込んで聞かせていただくということがしばしばありました。(あ!でももうすでに時効でしょうから、でも本当によく皆さんにお世話になりました)

それらのレコードや演奏会で、またたくさんの素晴らしい指揮者やオーケストラやソリストたちにめぐり会うことになりました。

それらのたくさんの音楽家たちからも本当に多くの音楽の喜びや感動を与えていただきました。

以下次回につづく

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2007年8月20日 (月)

音楽との出会い(Ⅰ)

音楽との出会い(Ⅰ)

音楽って本当に素晴らしいですね!!

私がクラッシック音楽をよく聞くようになったのは高校生になってからだったと記憶しています。

小さなときからヴァイオリンを習っていましたが、それまではどちらかというと音楽を聴くというよりも、生まれ育った金沢八景と言う風光明美な自然環境のなかで、その自然を大いに満喫しながら野球や卓球や釣りなどに明け暮れした日々を過ごしていたようです。

私の中学から高校時代にかけては、世の中はちょうどアメリカンポップスの全盛時代からロカビリーを経て和製ポップスの時代へと変わろうとしていた時期にあたり、ラジオから流れてくるアメリカンヒットチャートのナンバーに耳を傾けていたころを懐かしく思い出します。

最近それらの60年代のポップスがテレビのコマーシャルのBGMとしてよく使われているようで、本当に懐かしい想いをすることがありますが、そんな想いでそれらの曲を耳にしている人も結構いらっしゃるのではないでしょうか。

   

高校1年の春にあるオーケストラに所属し、その練習に通うようになると、どうしても自分たちが演奏する曲をレコードで聴いてみたくなるものです。

そこで、フルトヴェングラーの演奏では、トスカニーニでは、カラヤンは、またカール・ベームの演奏では等々いろいろなレコードを探してきては聞くようになりました。

はじめのうちは、そんな聞き比べとともにヴァイオリンの曲や協奏曲や交響曲のような管弦楽曲を中心に聞いていたようですが、やがて室内楽曲やピアノや声楽曲、さらにはオペラへとそのレパートリーも次第に広がって行きました。

以下次回につづく

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2007年5月14日 (月)

マリア・カラス、私のカスタ・ディーバ続編 そのⅧ 完結編

「カラスの前にカラス無し、カラスの後にカラス無し」であります。

Callas真紅の大輪のバラの花に「マリア・カラス」という品種があることをご存知だろうか。

その名は、バラの花の名前にまで冠されたのである。

それはまさに、不出生のプリマドンナ!「世紀の歌姫」「永遠の女神(ディーバ)」マリア・カラスにこそ相応しい花なのかも知れません。

「オナシスとの成り行き」を通して、「私のカスタ・ディーバ」のその後をお伝えできたらと書き始めましたが、いろいろな思いが交錯し、なかなかうまくまとまらず、取り留めのないものになってしまいました。

カラス気違いの私は、ことカラスの話となると、(あ!カラスのことだけではありませんでした)もう夢中になってしまい後先も何もなくなってしまうのです。

これは「気違い」という病気のせいですのでお許し下さい!!

おかげさまで楽しい心の旅をさせていただきました。

「完」

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2007年5月12日 (土)

マリア・カラス、私のカスタ・ディーバ続編 そのⅦ

こと音楽に関しては、その世界に君臨し続けた「女神」(ディーバ)であった訳ですが、一人の女性としては、あまりにも世間には疎く、恋愛に対しても純粋すぎて、決して幸せであったとは言えないかもしれません。 

24カラスが活躍したその時代は意外と短く、1942年7月、アテネ歌劇場においてプッチーニの「トスカ」を歌い、センセーショナルなデビューを果たして以来、1965年7月のコヴェントガーデン王立歌劇場での「トスカ」を歌ったのを最後に、オペラの舞台からは実質上引退しており、その間わずか23年足らずであったということに驚かされます。

カラスは、そのわずかな時間の中でオペラの歴史に大きな変革の足跡を残しています。

なかでも、埋もれていた数々のベルカウント・オペラに新しい息吹を吹き込み、それを現代に見事に蘇らせたその功績は実に大きいといわなければなりません。

以下次回につづく

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2007年5月11日 (金)

マリア・カラス、私のカスタ・ディーバ続編 そのⅥ

生前カラスは、インタビューに答えて、「私にとって一夜として平和な夜はありませんでした」と答えています。

カラスにとって舞台に立つということは、常に口さがの無い聴衆(もちろん評論家やマスコミも含めて)を前に120%の完璧さを与えなければならなかったというのです。

100%では当たり前、彼らは常に120%を与えなければ満足しませんでした。

またどんな些細なミスでも見逃すまいと耳をそばだてていたのです。

ほんのちょっとでもミスをしようものなら、翌日の世界中の新聞は、「カラスはもうだめだ」「カラスは衰えた」と書き立て、一夜にして過去の人にされてし33まうからです。

体調等で自分が120%与えることが無理だと判断ずれば、たとえどこの国の大統領が聞きに来ていようが、天下のスカラ座の舞台であろうが、自分の芸術を守るためには、何のためらいも無く、その場でその公演をキャンセルしてはばかるところが無かったのです。

それが大きくスキャンダラスに報道されたことが、幾多のカラス伝説を彩ってきたのです。

(写真は、1958年ローマ歌劇場でのイタリア大統領をはじめ政治家や多くの有名人が出席した「ノルマ」公演の第一幕を歌い終わって公演をキャンセルし、退場するカラス。)

そんなカラスにやっと平和な夜が訪れたのです。

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2007年5月10日 (木)

マリア・カラス、私のカスタ・ディーバ続編 そのⅤ

話を本筋にもどしましょう。

少し健康と気力を取り戻したカラスは、1971年の10月から11月にかけてと、1972年の2月から3月にかけての2回にわたって、あのジュリアード音楽院での歴史的な、演劇の舞台のモデルともなった、(日本では黒柳徹子が上演)マスタークラスを行っています。

翌1973年の5月に、マダムバタフライコンクールの特別審査員として初来日を果たし、私が日記に記した、大阪フェスティバルホールでのマスタークラス、またその翌年1974年のカラス・ディスティファノ日本特別公演へと繋がってくる訳です。

その間、オナシスの方はといいますと、ジャックリーヌとの仲もうまくいかずやがて離婚。

家族の不幸が続いたり事業の失敗等が重なり、健康を害するに至り、1975年3月5日、パリの病院の一室でその生涯をさびしく閉じたのです。

オナシスの死から2年、カラスの突然の訃報を伝える電撃的なニュースが世界中を駆け巡りました。

かつての世界のオペラ界に君臨した世紀の歌姫の孤独な死として世界中のマスコミが取り上げ報道したのです。

1977年9月16日13時30分、十六区のジョルジュ・マンデル通り36番地にある自宅アパートメントでその栄光と波乱にとんだ53年の生涯を閉じたのです。

心臓麻痺説、自殺説、他殺説、その真相はいまだに明らかにされていませんが、カラスが亡くなってから今年で既に30年、その真相が明かされる日は近いのかも知れません。

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2007年5月 9日 (水)

マリア・カラス、私のカスタ・ディーバ続編 そのⅣ

Gallery_01 ついでに今回のお話しに関連したエピソードをもう一つ。

カラスがオナシスの子供を身ごもったことがあるのでは?という話しがありました。

1981年、イギリスの女性ジャーナリスト、アリアンナ・スタシノプーロスが発表した「Maria Callas:The Woman Behind the Legend」と言う本の中で、「1966年にカラスがオナシスの子供を妊娠し、生むことを望んだが、オナシスが中絶を強要した」と伝えています。

また、カラスの元秘書、ナディア・スタンチョフが発表した「回想のマリア・カラス」(音楽之友社刊)と言う本の中には、1970年にカラス自身が「おまえに子供なんか生んで欲しくない、もうたくさんだ。すでに二人いる」と(オナシスが)言ったのよ。

死の苦しみだったわ。そうでしょうナディア。中絶なんて恐ろしいことを!決心するまでに、四ヶ月かかった。考えてみて、彼に逆らって子供を生んでいたら、私の人生はどんなに充実していたことか。」と語ったと紹介されています。

これに対し、元夫のメネギーニは「マリアは子供を欲しがったが、さまざまな検査の結果、子宮の構造欠陥で子供を生むことはできないと医者に宣告されていた」と反論しています。

双方どちらの言い分も、さもありなんというお話しですが、しかしその真相は、既に遠い過去という闇の中です。

以下次回につづく

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2007年5月 7日 (月)

マリア・カラス、私のカスタ・ディーバ続編 そのⅢ

カラスのエピソードと言えば、ちょっと横道にそれますがこんなおはなしもあります。12

カラスは、デビュー当時100kg以上もある、巨漢でした。最高時には108kgもあったと言われています。

当時は、一般的に言っても、大きな声を出すためには、ある程度の身体が必要であると信じられていたのです。

その迷信がいまだに生きているのか、病に侵されていて今にも死にそうなはずなのに、丸々と太った頑丈そうな「ヴィオレッタ」(ヴェルディの歌劇「椿姫」のヒロイン)や、「ミミ」(プッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」のヒロイン)のなんと多いことか!!

やはり多少歌が上手でも、ずっと目を瞑って聞いている訳には行きません。ちょっと興醒めです。

ですから視覚(見た目)がとても大事だと言うことがわかります。

あるとき、カラスは夫メネギーニとともに、当時ヨーロッパの社交界でも最も貴婦人たちに愛されていた、あこがれのデザイナー「ビキ」のアトリエを訪ねました。

アトリエの中を見廻した夫メネギーニから「ここは君のような人の来るところじゃないみたいだよ」と言われたというのです。

そのときカラスは、悔しい思いを胸に「私は、必ずここに戻ってくるわ」と言い残して、そのアトリエを後にしたそうです。

またちょうどその頃、親しい友人の一人、偉大な演出家であり、映画監督でもあったキルノ・ヴィスコンティからも、「やせたら素晴らしい女優歌手になれるよ」というアドバイスを受けていたのです。

カラスは一大決心をしてダイエットに取り組み、60kgまで体重を落とすことに成功し、見違えるような美貌と、素晴らしいスタイ21ルを手に入れ、まさに貴婦人へと大変身を遂げるのです。

1年後、約束通り「ビキ」のアトリエを訪れ、以後最後までその身に着けるものはすべて「ビキ」が担当することになりました。

その人並み以上に優れた容姿を手にしたカラスは、舞台の上でもよりリアルなヒロインを演じることが可能となり、今でも人々の間で語り草となっている、数々の輝かしいステージをその歴史に残すことになります。

以下次回につづく

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2007年5月 3日 (木)

マリア・カラス、私のカスタ・ディーバ続編 そのⅡ

35 カナリアを連れたウィンストン・チャーチル夫妻やグレタ・ガルボ、モナコ大公ご夫妻といった豪華な顔ぶれでの、7月21日から8月16日までの27日間にも及ぶ、この豪華クルージングは、音楽の世界の女神(ディーバ)を一人の女性へと変えてしまったのかも知れません。

カラスは夫メネギーニと別居することとなり、オナシスは妻と離婚することになりました。

夫メネギーニと別居後のカラスは、舞台から遠ざかるようになり、公演回数もめっきり少なくなって行きます。

カラスは舞台出演を極力抑えて、オナシスがカラスのために買ったスコルピオと言う無人島で、過ごすようになりますが、二人の間はついに結婚にまで至ることなく、その幸せもあまり長くは続きませんでした。

1963年頃からはもう既にオナシスの心は別の女性、ジャックリーヌ・ケネディーの方に移ってしまっていたのです。

その後も二人の関係は続きますが、やがて破局が訪れます。

1968年オナシスはジャックリーヌとの結婚を発表し、9年間に亘る二人の関係にピリオドを打ったのです。

オナシスと別れた傷心のカラスは、パリのアパートの一室にこもり、薬づけの日々を送るようになり、そんな中でも再起への道を探っていたようです。

映画「永遠のマリア・カラス」はこのころのカラスのエピソードを映画化したものです。

以下次回につづく

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2007年5月 2日 (水)

マリア・カラス、私のカスタ・ディーバ続編 そのⅠ

私のカスタ・ディーバ(マリア・カラス)続編Ⅰ

ほろほろ鳥さんからリクエストがありました「オナシスとの成り行き」についてお話しましょう。

アリストテレス・ソクラテス・オナシス、彼はギリシャの船舶王として知られています。

1906年、トルコの貧しい家に生まれ、一家でギリシャに移住しました。

煙草貿易から一代で巨万の富を築き、世界有数の大富豪となりました。

カラスは、1947年のヴェローナ野外音楽祭で、歌劇「ジョコンダ」を歌って、イタリア・デビューを果たしました。

この公演のためにイタリアに到着して間も無い頃に、ヴェローナの煉瓦工場の経営者であり、この土地の名士でもあった、ジョバンニ・バッティスタ・メネギーニと出会い、30歳近い年齢差を超えて熱烈な恋愛の末、結婚することになります。

以後メネギーニは、夫兼マネージャーとしていつもカラスの傍らにいるようになりました。

カラスがオナシスと出会ったのは、1957年9月3日のこと、ヴェネツィアでのパーティーの席上でした。

翌1958年の12月19日、パリのオペラ座でカラスのパリデビュー・コンサートが、フランス大統領をはじめ、世界各国の王侯貴族、著名な文化人、芸能人の列席のもとで行われました。そのコンサート後の大パーティーで、オナシスがカラスに猛烈なアタックを開始したということは有名な話です。

翌年1959年6月17日に、ロンドンのコヴェントガーデン王立歌劇場での歌劇「メディア」の公演終了後に、オナシスは、ドーチェスター・ホテルに5000人の来賓を招待し、カラスを主賓としての大パーティーを開きました。

オナシスはそのとき、その会場を真っ赤なバラの花で埋め尽くしたと言われています。

そのパーティーから一ヶ月後に、オナシスは、カラス・メネギーニ夫妻を、自分が所有する豪華ヨット、クリスティーナ号に強引に招待します。

この招待への受諾が、世紀の歌姫マリア・カラスの運命を決定的に変えることになりました。

以下次回につづく

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2005年11月12日 (土)

マリア・カラス、私のカスタ・ディーバⅣ

私のカスタ・ディーバ(その四)

世紀の公開レッスンは多くのドラマと貴重な音楽の知的財産を織り込みながら進んで行きました。

もはやレッスンの細かい内容や具体的なアドバイス等は、今となっては、ほとんど忘れてしまいましたが、当時はその一つ一つが珠玉のようなアドバイスであったことは間違いありません。

そんな中で今だに強い印象を受け、わりと鮮明に記憶にのこされているのが、「ベルカント」と言うことについてのアドバイスです。

たしかカラスが言っていたのは、「ベルカント」とは、決して発声のテクニックのことではなく、歌そのものが、声そのものが、その役柄そのままを現わすような発声、歌唱方を「ベルカント」と言い、歌そのものがまさにドラマでなければならない。と言うようなことを、言っていたと記憶しています。

やがてコンサートは、鳴り止まないアンコールを求める拍手の続くなか、冷め遣らぬ興奮と感動のうちに終わったのです。その心地よい余韻を残して!

いずれにしろ、このゼミナールコンサートは、日本の音楽史上にとっても、画期的な出来事であったと言うことは否定出来ない事実なのです。

このゼミナールコンサートは、翌年1974年10月に行なわれた、カラスの生涯最後のコンサートツアーとなった、ディ・ステファノとの日本特別公演ツアーへと繋がって行ったのです。

翌1975年から予定されていたカラスの世界ツアーのスタートを飾る「トスカ」の日本公演は結局中止となり、幻の公演となった為、この日本特別公演ツアーの最後の公演、1974年11月11日の札幌公演が、カラス生涯最後のステージとなった訳です。

幸せなことに、その日本公演も、東京渋谷のNHKホールでの公演と、上野の東京文化会館での公演を聴くことが出来ました。
全盛期の頃とはまったく違い、だいぶ衰えたとはいえ「鯛は鯛」、充分にカラスの芸術の一端に触れることが出来たと思っています。

不出生のプリマドンナ、「マリア・カラス」

その膨大な量の「世紀の歌姫」の記録がCDやDVD等に残されています。

それは何時でも聴いたり見たりすることが出来ます。
しかし、もう生の声を聴くことは出来ません。

たまたま、ほんの少しの間でしたが、生きた時代が重なり、その芸術を直に享受出来たことは、本当に幸せなことだったと今つくづくと思っています。

私のカスタ・ディーバ、清らかな女神
「マリア・カラス」よ永遠なれ!!

7回にわたりお付き合いいただきましたが、以上で完結いたします。

遠い記憶の端に追い遣られて行く思い出のひとつに過ぎませんが、完全に私の記憶のなかから消失してしまう前に、何時の日か誰かに伝え残しておきたいと思っておりました。

このような場をお借りして、たくさんの方々の目に留めていただき、本当に幸せです。

最後までお付き合い下さいまして、心から感謝申し上げます。

ありがとうございました。

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2005年11月11日 (金)

マリア・カラス、私のカスタ・ディーバⅢ

私のカスタ・ディーバ(その三)

いきずまるような緊張感のなかでその公開レッスンが始まりました。
第三回マダム・バタフライ世界コンクールでの入賞者、第一位ルーマニアのソプラノ、エウジェ二ア・モルドボニュをはじめ順次それぞれが、カラスが指定した箇所を三浦洋一氏のピアノ伴奏で歌います。
それをカラスが途中で止めて、細かく指導する。その繰り返しでレッスンが進んで行きました。
テノールはディ・ステファノが担当しました。

それぞれ、国際コンクールでの入賞者だけに、声も素晴らしいし、その歌も素晴らしく、申し分のない、さすがにと思わせるものでした。

やがてレッスンにも熱がこもってくると、今度はカラス自身が小さな声でオクターブ下を歌い始めたのです。
あ!カラスが歌っている!!
会場は、息を呑んで神経を集中し、その声を追うことになります。

そして次の瞬間、カラスの歌声が、突然オクターブ上がり、会場にまぎれもないあのカラスの歌声が響きわたったのです。

その瞬間に、今までさすがに素晴らしい、上手いなあーと思って聴いていた入賞者の歌声が、一瞬にして色褪せたものとなってしまうのです。
それは、言ってみればまさに、大学生と幼稚園児の違い以上の格差を感じさせるものでした。

カラスのその陰影に富んだ歌声には、張り詰めた緊張感があり、非常にリアルなまでに声そのものが、そのままドラマを感じさせるものでした。

その生の声を聴いた聴衆は、突然の福音に思わず声を出したり、溜息をついたりと、会場がどよめく状況となってしまいました。

するとカラスが歌うのを止め、客席の方に顔を向け、手のひらを客席の方に向けながら腕を左から右に水平に移動させながら、ただ一言「今は、レッスン中ですから」と言うと、そのどよめきは、一瞬にして水を打ったように静まり返り、会場全体に再び張り詰めた緊張感と静寂がかえって来るのです。

それは本当に素晴らしい体験をさせていただきました。
こんなことが何回か繰り返される中でレッスンが進んで行ったのです。

以下次回につづく

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2005年11月10日 (木)

マリア・カラス、私のカスタ・ディーバⅡ

私のカスタ・ディーバ(そのニ)

三十分ほど遅れてそのゼミナールコンサートは始まりました。
このコンサートは、三浦環顕彰会・マダム・バタフライ世界コンクール実行委員会が主催した、第三回マダム・バタフライ世界コンクールの入賞者、(第一位、第ニ位、第三位までのソプラノ及びテノールが対象)に対して、このコンクールの特別審査員として初めて日本への招聘に成功した、マリア・カラスとディ・ステファノが公開レッスンを行なうと言う企画でした。
ですから、コンサート会場には、全国各地からカラスファンが詰め掛けていたのです。

今回は公開レッスンなので歌は歌わない。と言う条件付きでしたが。
このまたとない機会をとらえ、例え一目でも良いからあの「世紀の歌姫、マリア・カラス」を自分のこの肉眼で見てみたい。
あろうことならあの「世紀の歌姫、マリア・カラス」の生の声を、なんとか聴いてみたいものだ。
ひょとしたら聴くことが出来るかもしれない、という淡く切なる想いをその胸に駆けつけた、多少の差こそあるかも知れませんが一言で言えば「カラス気違い」で満たされていたようです。
そこには、一種異様な熱気が溢れていたのです。

その熱気のなか、夢のような、煌めく宝石をちりばめたようなひととき、そんなかけがえのない時間が静かに動き始めようとしていたのです。

以下次回につつく

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2005年11月 9日 (水)

マリア・カラス、私のカスタ・ディーバⅠ

私のカスタ・ディーバ(清らかな女神よ)

忘れえぬ思い出であるとともに、これは歴史の証言でもある。

何回かにわたって書き記したいと思っています。

是非とも最後までお付き合い下さい。

忘れもしない、今でもはっきりと私の記憶に焼きついているコンサートがあります。

1973年5月20日、それは今から32年も前のことです。

私は当時25歳、新幹線に乗って大阪に向かいました。

予定していた時刻より少し早めに中ノ島の、大阪国際フェスティバルホールに到着し、会場に入り開演を待つことにいたしました。

この日の演奏会のタイトルは、

「第3回マダム・バタフライ世界コンクール受賞記念演奏会」「マリア・カラス、ジョゼッペ・ディ・ステファノ ゼミナールコンサート」

この長い名前の演奏会がその時始まろうとしておりました。

世紀の歌姫、永遠のプリマドンナ「マリア・カラス」がいよいよ初めて日本の聴衆の前にその姿を現わすことになっており、その瞬間が刻一刻と近ずいていたのです。

フェスティバルホールを埋め尽くした聴衆は皆、等しく大きな期待と、またその期待と同じくらいに大きな不安を胸に、心地よいざわめきの中、その瞬間を固唾を呑んで待っておりました。

開演5分前、一ベルのチャイムが会場に鳴り響き、ざわついていた会場が水を打ったように静かになり、いよいよと期待を胸一杯に広げて開演のベルを待っていたのです。

ところが、定刻を過ぎても開演のチャイムがなかなか鳴りません。5分、10分、15分、やがて胸一杯の期待は、胸一杯の不安へと変わって行くにしたがい、会場もまたざわめき始めました。

多くの伝説に彩られたカラスのことだから、本当に出てくるのだろうか?、土壇場でキャンセルをしたのではないだるうか?、等々よぎる不安を打ち消そうと、祈るような気持ちでその一瞬一瞬を過ごしていたのは、私一人ではなかったのです。

会場を埋めている聴衆のほとんどが同じように感じていたようです。

約20分後、待ちに待った本ベルが鳴り響き、アナウンスと共に、この日マリア・カラスとジョゼッペ・ディ・ステファノのレッスンを受けることになっている、マダム・バタフライ世界コンクールの第一位、第二位、第三位の入賞者や、役員スタッフ等が拍手の中、次々とステージ下手からその姿を現わしはじめました。

全員がステージ上に整列し終わり、カラスとディ・ステファノの二人を、そのステージに迎える態勢を整えて、二人が姿を現わすのを待つということになりました。

会場の拍手は一段と激しさを増し、その期待と不安の気持ちは、極限にまで達していましたが、二人はなかなか出てきません。

やがて、ディ・ステファノが一人タキシードでステージに姿を現わし、客席に向かってその声援に応えてから、舞台下手の袖に向かって片手を差し伸べ「マダム、マダム!」と声をかけました。

次の瞬間、まさに忘れられぬ歴史的な一瞬を迎えたのです。

カラスは、グリーンの上着にグリーンのロングスカート、グリーンのバッグにグリーンのハイヒールという鮮やかないでたちで、真っすぐ上手の方を向いたまま、大またでバッサバッサとステージに現われ、ステージ中央の少し手前ぐらいのところまで一気に進み、客席のほうに背中を向けるように、右足が前に出た半身の状態でぴたりと止まりました。

次の瞬間、客席の方に、身体はそのまま顔だけで振り返り、にっこりとあの紛れもないカラスの笑顔を聴衆の前に見せたのです。

その瞬間、会場にドドドドーという地震のような振動が起きたのです。なんとそれは2000人の聴衆がほとんど同時に溜息をついたのです。

あのカラスの笑顔を見たとたん 「あ!本物のカラスだ!」と誰もが心の中で叫び、ついにカラスに会うことができたと思った瞬間、今までの期待と不安と極度の緊張から一瞬のうちに開放され、その会場に居合わせたほとんどの人が安堵の溜息を一斉についたからです。

マリア・カラスは、その一瞬にして、完璧に2000人の聴衆の心を自らの手のひらのなかに取り込んでしまったのです。

それからの約二時間半、聴衆はカラスの一挙手一投足に完全に支配されることになりました。

これこそが本物の世界のプリマ、世紀の歌姫、と言われた、マリア・カラスの、その類い稀なるカリスマ性と言われるところのものなのでしょう。幸運にもそれを目の当たりにすることがで来たのです。

以下次回につづく

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2005年6月17日 (金)

私のカスタ・ディーバⅣ

私のカスタ・ディーバ(その四)

世紀の公開レッスンは多くのドラマと貴重な音楽の知的財産を織り込みながら進んで行きました。

もはやレッスンの細かい内容や具体的なアドバイス等は、今となっては、ほとんど忘れてしまいましたが、当時はその一つ一つが珠玉のようなアドバイスであったことは間違いありません。

そんな中で今だに強い印象を受け、わりと鮮明に記憶にのこされているのが、「ベルカント」と言うことについてのアドバイスです。

たしかカラスが言っていたのは、「ベルカント」とは、決して発声のテクニックのことではなく、歌そのものが、声そのものが、その役柄そのままを現わすような発声、歌唱方を「ベルカント」と言い、歌そのものがまさにドラマでなければならない。と言うようなことを、言っていたと記憶しています。

いずれにしろ、このゼミナールコンサートは、日本の音楽史上にとっても、画期的な出来事であったと言うことは否定出来ない事実なのです。

このゼミナールコンサートは、翌年1974年10月に行なわれた、カラスの生涯最後のコンサートツアーとなった、ディ・ステファノとの日本特別公演へと繋がって行ったのです。
この公演の最後の公演、1974年11月11日の札幌公演が、カラス生涯最後のステージとなった訳です。

幸せなことに、その日本公演も、東京渋谷のNHKホールでの公演と、上野の東京文化会館での公演を聴くことが出来ました。
全盛期の頃とはまったく違い、だいぶ衰えたとはいえ「鯛は鯛」、カラスの芸術の一端に触れることが出来たと思っています。

不出生のプリマドンナ、マリア・カラス

その膨大な量の「世紀の歌姫」の記録がCDやDVD等に残されています。それは何時でも聴いたり見たりすることが出来ます。
しかし、もう生の声を聴くことは出来ません。

たまたま、ほんの少しの間でしたが、生きた時代が重なり、その芸術を直に享受出来たことは、本当に幸せなことだったと今つくづくと思っています。

私のカスタ・ディーバ
マリア・カラスよ永遠なれ!!

四回にわたりお付き合いいただきありがとうございました。

http://umezawa.air-nifty.com/umeyumeblog

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